ひろしの話公開済み: 2019年7月3日更新: 2019年8月31日仲間を受け入れられず、東京〜沖縄〜東京〜三重〜大阪と転々としながらもNA(ナルコティクス・アノニマス)のミーティング会場に通うことで仲間に助けてもらっていることに気づいたひろしの話です。気がついたら精神病院のベットの上に1999年の秋、気がついたら精神病院のベットの上にいました。 その年の暮れ地元の東京ダルクに行きました。 仲間?がいました。 拒否しました。 「俺は違う・・」って、病院の中でも薬は止まりません。 どうしょう・・「でもあいつらとは違う・・」、 もう一度だけダルクに行ってみようとなぜか思えました。 このまま東京で生活するのはもう無理、居場所がどこにも無い!何度もくすりを止めようとしたけど続かないし・・ダルクの生活を選びました。 沖縄が自分の新しい居場所でした。 仲間との新しい生活が始まりました。 海、太陽、そして琉球太鼓の日々を過ごしている間に薬はいつに間にか止まっていましたが、12ステップのプログラムなど自分は受け入れてはいなかった。 「ミーティングに行け」当然そこには回復などは無くクリーン1年半で行き詰まりました。 自分の壊れた頭とガマンの限界を東京に逃げ帰った事でまざまざと体験する事になりました。 電車に乗れない、人が怖い、満員電車に乗ると過呼吸が出る、自分の存在その物を消してしまいたい、ビルの屋上まで何回も行ったけど飛べない、日に日に薬が必要になっているのを感じ、初めて自分が薬物依存症者で薬が無いと何も出来ないことを少し認めた時でした。 スポンサーや東京ダルクのスタッフの提案は、「ミーティングに行け」でした。 自分の状態など関係なくフラフラになりながらミーティングに参加しました。 東京のミーティング会場を片っ端から回り自分の話をしました。 そんな時、ミーティング場に、真っ黒に日焼けをし、この筋肉を見ろと言わんばかりにタンクトップに麦藁帽、坊主頭にチョンマゲ、目の下にはクマ、何とも変な奴が目の前にいました。 三重ダルクの責任者でした。 その人も神経症であることをミーティングで話しをしているのを聞きました。 不思議と月の内3回も東京でしかもミーティング場で会いました。 三重に行きたい事を伝えました。 お世話になっていた東京ダルクのスタッフの協力と三重ダルクの責任者の理解を経て三重に行ける事になりました。 回復の為の援助の無い自分を1年間無償で受け入れて貰いました。 どこの馬の骨とも分からない薬中を支えてくれました。 その施設に寄せられるお金が自分の命を助けてくれました。 目の前にいる仲間と今日一日共に怒ったり、笑ったり、腐ったりしながら認めたり否認しながら過ごしました。 三重で弁当屋のバイトしながらミーティングに出ながら自助グループの役割などしていました。 そんな時、大阪行きの話しがありました。 先の事は分かりません。 ただどこに居ても沖縄や東京そして三重で自分は色々な仲間や関係者、そしてそのダルクを支えてくださる方々に助けて貰いました。 これからもどうか助けて下さい。 大阪ダルクの仲間と今日一日過ごして行きたいです。 大阪ダルク ひろし 続きを読む ご注意ください この話は本人の了承を得て匿名または実名で掲載しておりますが、記事の内容に関するご質問などは回答をいたしかねます。 このコンテンツの著作権は大阪ダルクに帰属し、一切の転用・転載を禁止いたします。こちら記事もどうぞ 女性の体験談 ① 覚せい剤の使用と売人を続けた結果、逮捕〜精神病院入退院を経験し横浜から大阪ダルクにつ・・・ 女性の体験談 ② 10代で鑑別所から大阪ダルクにつながったもののすぐには受け入れられなかった薬物依存症の・・・ 出所後 ⑤ 人並みに結婚もして、三人の子供を授かりながらも裏では薬物使用が止まらず何度も逮捕・服・・・