合法薬物 ②

17歳で親の懇願からしかたなく大阪ダルクにつながった仲間の体験談です。
不信や拒否を繰り返しながらも時間をかけてダルクとNAのプログラムを受け入れていく過程を話してくれました。
彼は大麻・シンナーなどの違法薬物も数種類使用していましたが処方・睡眠薬などの合法薬物への依存の傾向が強かったため、この話は「合法薬物」に分類しています。

こいつらアホちゃうか、こんな事してて薬がやめられるわけがない

合法薬物 ② | 仲間の話 - 大阪ダルク

僕が初めてダルクを訪れたのは今から6年程前の17歳の時です。
親に「頼むから1度行ってくれ、今後行くか行かないかは別として、見学だけでもいいから一緒に来てほしい」と何度も何度も言われ仕方なく行った記憶があります。

最初の印象は『神様、、、』とか言ってるのを聞いて「こいつらアホちゃうか、こんな事(ミーティングなど)してて薬がやめられるわけがない」と思いました。次にダルクへ行ったのは僕が22歳になってからでした。

薬物を初めて使用したのは16歳、季節は確か記憶では夏前でした。

友人にトルエンを誘われて初めて吸引しました。「マズい」と思った記憶があります。しかし何度もやるうちに気持ちがよくなり、記憶が飛んだり、幻覚がみえたりして楽しいことがわかり、はまりだしました。そのうちトルエンの味が美味しく感じるようにもなりました。最初のうちは外でやっていましたが、いつからか家でも吸うようになりました。それをみた両親は僕を精神科に連れて行ったり、寺に連れて行ってお祓いをしたりとあらゆる手段でトルエンをやめさそうとしました。なかには50万円もする壺を買わそうとする寺もあったみたいです。

今から思うと両親は僕がトルエンを吸う事で思いつめていたのだと思います。しかし両親の思いとは裏腹に僕の薬物問題は悪化の一途をたどりました。一年程トルエンを吸い続けた後、咳止め薬を使うようになりました。今思うと、薬物の種類を変えたと言った方が正しいと思います。最初のうちは1日1本で十分遊べていましたが日増しに量が増えていき最終的には1日20本は飲むようになりました。お金は薬代で1日2万円必要でした。その頃僕は、犯罪まがいの仕事をしていたので、薬代には困らず、薬を買ってもお金が貯まる、辞める必要など全くないような環境でした。しかしその仕事を辞めて貯まっていた貯金も底についた時、薬を買うお金に困りました。その時にとんでもない切れ目にあいました。禁断症状は言葉では表せないぐらい辛かったのを今でも覚えています。自分の力だけではこの切れ目を脱するのは無理だと思い両親に助けを求めました。両親はすぐに精神病院に連れて行ってくれて僕は入院を決意しました。僕が19歳のときでした。それが1回目の底つきでした。

飲酒と再使用の繰り返しながらも成長と「自覚」の芽生え

入院して最初の5日間ぐらいはやはりあのとんでもない切れ目に襲われました。保護室に入れられたのですが禁断症状に耐えられず暴れまくりました。そのたびに看護士が僕の尻に注射を打ちにきました。そうすると僕は5時間ぐらい眠る。そして目が覚めて、また暴れては注射を打つ、それの繰り返しでした。

そしてようやく切れ目から脱け出せたような感じになり、1ヶ月程で退院しました。どんなに苦しい体験を持っても、僕は退院して1週間で薬局に咳止めを買いに行きました。買ってから飲むかどうか1時間程考えましたが、薬の力には勝てませんでした。そしてまた毎日使うようになり、薬を買う金にも困り親の金に手をつけるようになりました。親の金を盗んでは薬を買って、薬を使っては言い訳をして、毎日同じ事の繰り返しでした。そんなことをしているので親にも顔をあわせるのがしんどくなり家を飛び出しました。自分でも「また同じ事をしてるわ」と思いつつ犯罪に手をそめました。そしてまたお金を稼ぐようになり薬の量も増え、薬の種類も大麻、コカイン、LSD、エクスタシー、リタリン、エリミンといろんなものに手を出し始めました。その中でも大麻とリタリンとエリミン、それと咳止め薬が僕のお気に入りでした。その時の僕の使い方は朝起きて咳止め薬を15箱飲んで体を動くようにします。それから仕事にでて移動の車の中でリタリンを10発程飲み目を覚まします。夕方になり仕事が終わると大麻を吸って仕事仲間と居酒屋に行き酒を飲みます。酒はあまり飲めませんが大麻を吸っていたのでそれなりに飲めました。それからクラブに行ってエクスタシーとエリミンを飲んで気分を上げたり下げたりして遊んで疲れたら家に帰り、また大麻を吸ってDVDを見ながら眠りにつく、そんな毎日を過ごしていました。

そしてある時、仕事で東京に行く事になりました。しかし東京に行ったのが間違いだったのか、大麻取締法違反で逮捕されました。その時も留置所でおかしくなり訳の分からない事を言って風邪もひいていないのに担当に風邪薬をもらっていました。担当も風邪薬さえ与えていればこいつはおとなしくしてると判断したのか毎食後と寝る前に風邪薬をもらっていました。その時東京の池袋署の薬箱に常備してあったのが咳止め薬と成分が似ているパブロンゴールドの錠剤でした。それを貯めていき今日の分、明日の分とティッシュに小分けして自分でコントロールして飲みました。拘置所に移監されると全くもらえないと解かっていたので、切れ目が急激にこないように少しずつ量も減らしていきました。そして拘置所に移されました。拘置所に移った時は留置所と待遇が全然違うのに驚きと戸惑いを隠せませんでした。拘置所で薬の切れ目と環境の悪さ、それに怒りがこみ上げてきて自分が何故ここにいるのかもわからなくなり独り言などを喋るようになりました。妄想と想像を膨らまして1人で笑ったり怒ったりして感情さえも抑える事ができなくなり、ぶっ壊れたと思いました。2度目の底つきでした。

それから裁判を受けて執行猶予の判決をもらい実家に戻りました。そのときも親がわざわざ東京まで迎えにきてくれました。実家に戻ると最初の1ヶ月はおとなしくしていたのですが次第に面白くなくなってきて薬局に走りました。それからはまた以前と同じで薬でどうしようもなくなりました。やはり結果は同じで執行猶予中にもかかわらず再犯を犯し刑務所に行く事になりました。刑務所の中で死にたくなりタオルを首に巻きつけて自殺も試みましたが死ぬ事はできませんでした。刑務所の中の生活は食事以外の時は毛布をかぶって寝ていました。刑務所の中では横になって寝る事は許されていませんが僕は勝手に横になって寝ていました。最初のうちは横になるたびに担当が5人程きて部屋の扉をあけて『作業せーへんにゃったら座っとけ』と無理やり僕を起こしにきますが担当が出て行くとまたすぐに寝るのです。そしたらまた担当が怒りにきます。起こしに来た時だけ起きて居なくなったら寝る、の繰り返しをしていたら担当も諦めたのか何も言わなくなりました。

受刑生活も残すところ2ヶ月となったと同時に突然親から手紙がきました。手紙の内容は『お前は二度と実家には戻さない、ダルクに行くなら迎えに行ってダルクまで送ってやる、それが嫌なら迎えにも行かない、もし実家に帰ってきたら保健所に通報して精神病院から二度と出られないようにする』といった内容でした。僕は行く気など全くなかったのですがダルクに行くから迎えに来てくださいと返事を書いて送りました。そして出所の当日親が迎えにきました。タバコが吸いたくなったと言ってコンビニに寄ってもらい、トイレで出リタリンとエリミンを10発ずつ酒と一緒に飲みました。何故薬があったかというと捕まって留置所にいるときに病院から処方を出してもらっていて拘置所に行けばその薬が飲めないので保管されていて刑務所に行くときもそのまま僕の留置品として扱われたらしく出所した時に返還してくれました。コンビニから出てタバコを吸い車に戻りました。そしたら親がいまからダルクに行くと言いだしたので僕は「やっぱり行かへん」と言いました。そしたら親は「じゃあ今すぐ車から降りろ」と言いました。僕はもう二度と刑務所など行きたくなかったので以前の仕事をする気はありませんでした。だから渋々ダルクに行く事になったのです。

ダルクに着いてスタッフと面談をしました。親の意向はダルクに入寮してもらうということで話を進めていたのですが僕は入寮する事を拒み続けました。そこでも嘘八百をならべて実家からダルクに通所するから家に入れてくれと頼んでいたのですが親は絶対に家には入れないの一点張りで話が先に進みませんでした。僕と親との押し問答はスタッフを巻き込んで2時間続きました。しびれをきらしたのか1人のスタッフが僕を外に呼びました。その人は入寮施設の代表でした。表でタバコを一服して「とりあえず親には入寮すると言っといて嫌になったらすぐに出ればいいじゃない」と言いました。僕は何故そう言ったのかは覚えていないですが「じゃあそうします」と答えて入寮する事にしました。今から思うとそのスタッフとの出会いは人生の分岐点だったと思います。

ダルクに入寮して1ヶ月位経った時その時一緒に入寮していたメンバーが酒を飲もうと誘ってきました。僕は自分のクリーンなどどうでもよかったので「飲もか」って答えました。そして地下鉄の梅田で降りて地上につながってる階段の隅っこで酒を飲みました。ダルクのプログラムにつながって初めてのリラプスでした。               

寮に酒を持ち込み施設の中でも飲みました。その時の自分を振り返ると何をするのにも『自覚』が足りなかったものと考えています。それから一緒に酒を飲んだ仲間がおかしくなり入院しました。それから2ヶ月、薬も酒も止まりました。しかし新しい仲間が入寮してきてその仲間とまた一緒に今度はシンナーを吸いました。彼の知っている塗料店に4リットル入のトルエンを一緒に買いに行きました。その塗料店は誰にでも売るらしいのでいまだに「こんな塗料屋があるんやなぁ」と思いまた買いに来ようと思いました。そして施設に持ち込んで一緒に吸いました。それがスタッフに見つかり僕は埼玉ダルクにもう1人は北九州ダルクへ1週間『おしおき』として行く事になりました。行くのは嫌でしたが退寮になるよりかはマシだと思ったので行きますと言った記憶があります。埼玉へ行ってから施設長に公衆電話から電話をかけました。僕は「帰りたい」と言いましたが、施設長は「おみやげよろぴくー、がんばってねー」とそれだけいうと電話は(ツーツー)ときれました。埼玉から帰ってきてもその仲間と施設内で、やりたい放題のルール違反を繰り返しました。朝ダルクに行って生活費をもらうと勝手に寮に帰って寝たりパチンコに行ったりキャバクラに行ったりしていました。施設のルールも守らない、プログラムに真剣に取り組んでいる仲間やスタッフの気持ちも考えない、自分の欲ばかりを満たしていました。あげくのはてには1人暮らしをさせろとスタッフに言い出しました。施設の代表は最初は「絶対ダメ」の一点張りでしたがしつこく言ってると最終的には通所をつづけることで1人暮らしの許可を出してくれました。

施設長が1人暮らしをするにあたって『何かしてほしい事とかある?』と僕に聞きました。僕は携帯電話がほしいといいました。それと、もし薬を使って一人暮らしができないと思ったらまた再入寮させてくださいとも言いました。そしたら『わかったよ』と一言だけ言ってくれました。

そして1人暮らしを始めたのですがやはりうまくいく筈がなく初日に酒を飲みました。

3日間寝酒をしていました。4日目にメールで酒が止まらんから一泊だけ寮に泊めてくれと言ったら快く『その行動は良い事ね、居たいだけ居なさい』と言ってくれて一泊だけ泊めてもらい酒が止まりました。しかしそれからもエリミンを仲間からもらってクラブに遊びに行ったり酒もたまに飲んだりして断続的にスリップしていました。でもその度にメールでスリップしましたと言っていました。それを見かねたのか施設長が『あんたはこれから私達と一緒に行動しなさい』と言いました。そこから僕のクリーンが始まりました。朝起きてクリーンタイムの長い仲間と待ち合わせして一緒にダルクへ行きます。ミーティングを受けダルクから出て今度は一緒に自助グループ(NA)に向かいます。NAが終わると、どこかで話をしたりご飯を食べに行ったりして自分の家に帰ります。僕にとってはNAから帰ってからが問題だったので一緒にいてもらうことはものすごく有り難い事でした。そのうち自分でも気づかないうちにクリーンが続いていました。

そしてクリーン3ヶ月目で2つのナイトケアの手伝いをする事になりました。1つは以前僕が入寮していた施設ともう1つは女性のケアホームです。仕事が与えられてすごく嬉しかったです。何よりも嬉しかったのがやはり施設の仕事ができるということでした。仕事と言っても簡単なもので消耗品を施設に届けたり書類を整理したり施設で問題が起こったら見に行ったりと普通の会社でいえば雑用というものです。給料はありませんがそのかわりクリーンがもてました。僕は人に対して甘える事ができなかったのですが『甘える』ということも施設長はじめ、クリーンの長い人に体験させてもらった気がします。

そして現在の自分はというと非常勤スタッフとしてダルクにいさせてもらっています。そのかたわらナイトケアの雑用(笑)も兼任しています。

ダルクにつながってプログラムを通してたくさんの出会いがありました。その中で仲間が亡くなったりもして辛い別れもありました。しかしそういった経験の中で先に書いた『自覚』というものも芽生えだしてきました。自分もほんの少しですが「成長したんやなぁ」と思ったりもします。自分のなかでは回復とは永遠に続くと考えていますので僕の回復はまだまだ発展途上中でスタートし始めたばかりなのでしょう。そして今はたくさんの仲間に囲まれて楽しくやっています。自分がこれから先どうなっていくか分かりませんが今のこの自分を大切にしたいと考えています。僕は22歳でダルクに親に連れて行かれ、渋々入寮しました。ダルクは薬物をやめる場所だと思っていたので、初めて行ったときは辞める気などなかったのでいく必要などないと考えていました。入寮中は薬物を辞めない僕を施設長は見切りをつけるだろうと思っていました。でも薬物をやることで僕を追い立てる事は一度もなく、いつも(あなたを傷つける人はここには居ないからもう安心してもいいと思うけどなー。)といいつづけてくれました。施設長との出会いは僕の人生が薬物なしで『しらふ』で生きる事のきっかけとなりました。

『薬物依存症になってよかったなぁ』と最近おもえるようになってきました。


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